200516【妄想設定】コロナ生活下で思う「自分でやること・できること」の変化 [妄想設定]
ブログってのは不思議なもので、久々に書き始めるときには何か統一感のある話題を書いてやろうと思うのだが、そんなことを考えていると、実際には書くのが続かない。
そんなことが身に染みる復活2回目。
緊急事態宣言は多くの県で解除されたものの、私の住む東京都はいまだに継続。
まあ、そうだと思う。人側が解除したところで、ウイルスはまだいるのには変わりないのだから、
結局は気を抜かずに生活を続けることが大事だ。
さて、さすがにこの生活が続くと、髪を切りにいけない。
お世話になっているヘアサロンは営業しているとは思うのだけど、
もう少し落ち着いた状況にならないと、気持ち的にお店で髪を切りにくい。
そこで、久しぶりに自分で髪をカットしている。
といっても、まんまると盛り上がりやすい耳上の部分と、もみあげと、前髪に限ってなのだが。
大学時代は、節約という理由をつけて、自分で髪を切っていた。
ユニットバスの狭い風呂場の備え付けの鏡と、うしろには姿見の大きな鏡を置き、後頭部の髪もカットしていた。
確かにお金の節約にはなったものの(2か月で4000円~5000円くらいをカットでとられると思うと、
当時は自分でカットすることを選んでいた)、
その後、社会人になる前、大学卒業後の3月に美容室でカットしてもらって初めて、
「嗚呼、もっと早く素直に人にカットしてもらっていたら、俺の大学生活、
少しはモテたのかもしれない。。。」と反省したものだ。
いま昔の写真を見ると、あきらかに自分でカットしている仕上がりで、恥ずかしいやら何やら。。。
そういった、黒歴史の世界につま先だけ突っ込んだような思い出に浸りながら、
コロナ下で私は再び髪を切る。
こうやって自分で切っていると、人間、できることが変わっていくなと思う。
もちろんプロの腕前にはならないのだけど、
料理をしたり、絵を描いたり、こうして文章を書いたりも含めて、
「自分でやる」時間が増えていく。
実はこのなかで、私は自分ができるようになることの喜びや、
自分でやることの気持ちよさを覚えているのだ。
人間は、何かを制限された環境に長期間いることになると、
そのなかで何とか喜びを見つけ出す、変化する生き物なのだということを、
感じずにはいられない日々である。
私はこの期間を経て、自分の喜びを変化させる人たち、新たな楽しみに気づく人たちが
たくさん出てくると思う。今回言いたいことは、そういうことである。
…今回はあまり妄想ではないかも。
おわり
200506【妄想設定】マスク生活が続くと… [妄想設定]
2年ぶりくらいの更新。ほんと定期的には続きません、このブログ。
さて、2年ぶりとなる今回は、
カテゴリ【妄想設定】と称して、最近の生活で思いついたことを書きます。
■マスク生活の日常が続くと■
コロナウイルスの影響で、外出するのにマスクが欠かせません。
おまけに外出自粛が長引くせいで、友人と直接会うことも減り、
買い物で他人とすれ違っても誰も素顔なんか見られない。
そんな日常が普通になりつつあります。
というか、もうとっくに普通になっていますね。
この前ふと、この状態がこのまま続くとどうなるかと考えたとき、
これからはリアルで見る他人の「素顔」(マスクなしの顔)が貴重になるな~と感じました。
・買い物ですれ違う他人はみんなマスク姿。
・マスクでは目から下は見えないため、マスクの下にどんな顔があるのか想像してしまう。
・女性に対しては、この人はかなり美人なのではないか?といった妄想も進む。
・たまにマスクを外した瞬間を見ると、まるで見てはいけないものを見てしまったようで
ドキッとする。
・つまり、外で他人に口元を見せることに対して、ある種の興奮を覚える。
・「普段は見えないもの/隠しているもの」が見える→貴重な瞬間と感じるようになる。
人が感じるフェティシズムが、こうして変わっていく気がします。
マスクをしていない顔を他人に見せることが、
何か特別な行為に思えてきます。
個人的には早くこんな生活おさらばしたいですが、
一方でマスクが欠かせず、外出ができない日々が日常になる
ディストピアへの変化も感じずにはいられません。
太陽の明るい光のもと、公園でのんびり風を感じて過ごす日々を
取り戻したいものです。
【終わり】